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  • 最後に残ったのは、目の前の風景だった ―「自分」と「今」という幻

    自分とは何か。この問いこそが、あらゆる問題を解く根であり、源であり、原因であり、そして出発点なのだと思う。

    たとえば、美味しいものが食べたいとする。人は対象を追いかける。調べ、人に訊き、街を歩き回る。けれども、ふと立ち止まって考えてみる。美味しいものを食べたいと願っているこの自分は、本当にそれを美味しいと感じているのだろうか。そう突き詰めていくと、不思議なことに、美味しいものを食べるということそのものへの興味が、潮が引くように消えてしまった。

    グルメに限った話ではない。楽しい場所も、遊びも、ビジネスも、そして悩みもそうだ。人間関係、健康、お金。あらゆる悩みと、あらゆる恐怖に苛まれている。人生とはそういうものなのかもしれない。

    だが、それらはすべて自分ごとなのである。

    では、その自分とは何なのか。

    判断し、探し、諦め、楽しんでいる、この自分というものは何なのか。私はおそらく、幼いころからずっとそれを考えてきた。数えてみれば、もう六十年近くになる。

    *

    四歳のころの記憶がある。

    近所のおじさんが亡くなった。いつも遊んでくれたお姉さんが、そのおじさんの娘だった。葬式の日、お姉さんは泣いていた。四歳の私には、それが不思議でならなかった。なぜ、あのお姉さんがこんなにも泣いているのか。

    答えは、おじさんが死んだからだった。それが原因だった。

    つまり、死とは悲しみなのだ。

    幼い私はすぐさま台所へ走り、干からびた目刺しを丼の水に沈めてみた。

    生き返らなかった。

    水の底に横たわる、あの銀色の小さな魚の姿を、私はいまも鮮やかに覚えている。死とは何か、自分とは何かを考えはじめたのは、おそらくあの日からだ。

    答えは、まだ出ていない。いや、間違いなく出ていない。

    *

    ただ、ぼんやりとした考察の果てに、ひとつ気づいたことがある。答えがない、ということにである。

    なぜなら、自分という中心が、どこにも見当たらないのだ。

    美味しいものを食べたいと思う自分には、まず欲望がある。それを満たそうとする意志があり、そして行動がある。けれども、欲望も、意志も、行動も、満ち足りた心も、どれひとつとして自分という中心ではない。それらはいわば部品であり、部品の組み合わせにすぎない。

    では、自分とは何なのだろう。

    こういうことを考えはじめると、スピリチュアルや自己啓発セミナーや宗教にすがらない限り、次の推論も考察も一向に訪れてこない。そしてそこでは、決まってこんな言葉を授けられる。

    今を生きよ、と。

    では、その「今」とは何なのか。

    これは、自分とは何かに次ぐ難問である。

    「自分」も「今」も、小学校の低学年で習うやさしい言葉だ。けれども、その意味を問われて完璧に答えられる人が、いったい何人いるだろう。私にはまだわからない。

    今をつかまえようとすれば、それはもう過去になっている。やってくる今を見つめようとすれば、それは頭の中で思い描いた未来になっている。

    *

    そこで、今日の大きな気づきである。

    「今」という言葉には、まやかしがある。

    今とは幻なのだ。誰にも特定できない。そこに居続けている人を、私はひとりも見たことがない。

    自分もまた、しかりである。本当の自分であり続けている人を、私は見たことがない。人はみな、役割や思い込みに動かされ、それを自分だと思い込んで行動している。

    まるで雲をつかむような話だ。だから、もう「今」という言葉を使うのはやめよう。もやもやとした「自分」という言葉を使うのも、やめよう。

    そうして一つずつ手放していくと、あらゆるものの奇妙さに気づいていく。

    そして、どうでもいいような角度から世界を眺めたとき、最後に残ったのは、目の前の風景だった。

    実は、これがすべてなのだと気づいた。

  • 大切な思い出こそが、魂なのだ ― 自分サイズの生活とメタ認知

    今日は、自分サイズの生活とか、自分と向き合うとか、そういう話をしてみたい。

    この半年で、自分でもずいぶん進歩したなと感じている。

    AIを使うようになって、こうしてブログの自動投稿までできるようになった。LPやホームページも、作ろうと思えばいつでも作れる。YouTubeも、台本がすぐに作れるようになったおかげで投稿できるようになった。

    さて、ここで問題だ。

    問題といっても、トラブルが起きたわけではない。ひとつ、メタ認知をしてみようという話だ。

    「そもそも自分は何をしようとしているのか」。この問いは、日々の行動の中にときどき差し込まなければいけないフレーズだと思っている。

    いろいろなビジネスのテクニックが使えるようになったのは、この5年間、必死に勉強して動いてきたおかげだ。時間もお金も労力もかけた。理解もしたし、実際にできるようにもなった。

    でも、じゃあ何をしようとしているのか。問題はそこなのだ。

    ただお金を儲けたいというだけなら、二十代の頃と何も変わらない。もう六十代半ばに差しかかろうという今、自分は何をしようとしているのか。

    「何をすべきか」でも「何をしたいか」でもない。「何をしようとしているのか」。一段上から自分を眺める、メタ認知の問いだ。

    そう考えたとき、できることを繰り返して、なんとか生活をまかなえるだけのお金を稼げれば、それでいいのだろうか。

    それもいいと思う。生活がいちばん大事だ。幸せで、楽しくて、嬉しい時間は、生活の中にある。

    だからこそ、ここで改めて問いたい。そもそも自分は何をしようとしているのか。

    具体的に何をするかはいったん置いておいて、お金儲けだけにコミットして、あとは野となれ山となれでやっていく。それもひとつの生き方だろう。

    でも、それだとまた自分の中に、自己否定や自己憐憫が湧いてくる。

    自己実現や自己超越のような感覚で自分の基準を上げていくなら、次にやることはきっと目新しいことになる。だからこそ、私は一人旅をすすめている。

    こんなふうに、人生にはいつも悩みのようなものがつきまとう。そして、どんな指針で次の方向を決めればいいのかを、つい頭で考えてしまう。

    ここで結論を出そう。

    なるようになる。レット・イット・ビーだ。

    つまり、目の前の今日一日を大切にして、魂を込めて行動する。それに尽きる。

    では、魂とは何だろう。

    いろいろな定義や説明があるのだろうけれど、私は一行で言い表せる言葉が欲しかった。だから作ってみた。

    魂とは、上達の中で過ごした時間、その思い出。それは絆や人とのつながりさえも超越したレイヤーの理念である。

    ……もう少し簡単にできないだろうか。

    簡単に言えば、「大切な思い出」。それでいいのではないかと思う。

    大切な思い出こそが、魂なのだ。

    だから今日も、大切な思い出になるような一日を過ごしたい。それが、魂を込めて生きるということなのだと思う。

  • IF-THEN MY BADが教えてくれたこと ― ブログのテーマについて

    昨日思いついた「IF-THEN MY BAD」。一日経ってみて、これはかなり奥が深いテクニックだったんだなと感じている。

    きっかけは、何気ない横断歩道でのトラックの運転手とのやり取りだった。つい出てしまった自分の暗黒面。あの瞬間があったからこそ、このテクニックが生まれた。昨日は、そういう意味で貴重な一日だった。

    あの日は、あるコミュニティのオフ会が梅田であるとのことで、自転車で大阪駅前第三ビルの辺りを走っていた。

    一人遊びを追求することは、孤独を追求することとは違う。人生を楽しむことがテーマなら、人との関わり合いを避けて通るわけにはいかない。実はちょうど、半年前に入会したあるビジネスコミュニティを、今月末で休会するか退会するか考えていた。

    でも、結局そのことはどっちでもいい、というのが今の答えだ。

    頭で先に決めつけて動くよりも、今この瞬間に起きるひらめきや、それに対する自分の働きかけのほうが大事だ。そしてそのひらめきは、目の前に起きる出来事によって示唆されている。

    つまり、昨日の横断歩道の出来事こそが、このIF-THEN MY BADを生み出すきっかけになった。昨日の思いつきだけで完成したものではなく、その日一日を通して熟成されていったものだ。

    というわけで、当分このブログのテーマは「IF-THEN MY BAD」を軸にしていこうと思う。人生というものの楽しみ方、そしてそこにまつわるお金やスピリチュアル、セクシュアルなことも含めて、これから書いていく。