自分とは何か。この問いこそが、あらゆる問題を解く根であり、源であり、原因であり、そして出発点なのだと思う。
たとえば、美味しいものが食べたいとする。人は対象を追いかける。調べ、人に訊き、街を歩き回る。けれども、ふと立ち止まって考えてみる。美味しいものを食べたいと願っているこの自分は、本当にそれを美味しいと感じているのだろうか。そう突き詰めていくと、不思議なことに、美味しいものを食べるということそのものへの興味が、潮が引くように消えてしまった。
グルメに限った話ではない。楽しい場所も、遊びも、ビジネスも、そして悩みもそうだ。人間関係、健康、お金。あらゆる悩みと、あらゆる恐怖に苛まれている。人生とはそういうものなのかもしれない。
だが、それらはすべて自分ごとなのである。
では、その自分とは何なのか。
判断し、探し、諦め、楽しんでいる、この自分というものは何なのか。私はおそらく、幼いころからずっとそれを考えてきた。数えてみれば、もう六十年近くになる。
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四歳のころの記憶がある。
近所のおじさんが亡くなった。いつも遊んでくれたお姉さんが、そのおじさんの娘だった。葬式の日、お姉さんは泣いていた。四歳の私には、それが不思議でならなかった。なぜ、あのお姉さんがこんなにも泣いているのか。
答えは、おじさんが死んだからだった。それが原因だった。
つまり、死とは悲しみなのだ。
幼い私はすぐさま台所へ走り、干からびた目刺しを丼の水に沈めてみた。
生き返らなかった。
水の底に横たわる、あの銀色の小さな魚の姿を、私はいまも鮮やかに覚えている。死とは何か、自分とは何かを考えはじめたのは、おそらくあの日からだ。
答えは、まだ出ていない。いや、間違いなく出ていない。
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ただ、ぼんやりとした考察の果てに、ひとつ気づいたことがある。答えがない、ということにである。
なぜなら、自分という中心が、どこにも見当たらないのだ。
美味しいものを食べたいと思う自分には、まず欲望がある。それを満たそうとする意志があり、そして行動がある。けれども、欲望も、意志も、行動も、満ち足りた心も、どれひとつとして自分という中心ではない。それらはいわば部品であり、部品の組み合わせにすぎない。
では、自分とは何なのだろう。
こういうことを考えはじめると、スピリチュアルや自己啓発セミナーや宗教にすがらない限り、次の推論も考察も一向に訪れてこない。そしてそこでは、決まってこんな言葉を授けられる。
今を生きよ、と。
では、その「今」とは何なのか。
これは、自分とは何かに次ぐ難問である。
「自分」も「今」も、小学校の低学年で習うやさしい言葉だ。けれども、その意味を問われて完璧に答えられる人が、いったい何人いるだろう。私にはまだわからない。
今をつかまえようとすれば、それはもう過去になっている。やってくる今を見つめようとすれば、それは頭の中で思い描いた未来になっている。
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そこで、今日の大きな気づきである。
「今」という言葉には、まやかしがある。
今とは幻なのだ。誰にも特定できない。そこに居続けている人を、私はひとりも見たことがない。
自分もまた、しかりである。本当の自分であり続けている人を、私は見たことがない。人はみな、役割や思い込みに動かされ、それを自分だと思い込んで行動している。
まるで雲をつかむような話だ。だから、もう「今」という言葉を使うのはやめよう。もやもやとした「自分」という言葉を使うのも、やめよう。
そうして一つずつ手放していくと、あらゆるものの奇妙さに気づいていく。
そして、どうでもいいような角度から世界を眺めたとき、最後に残ったのは、目の前の風景だった。
実は、これがすべてなのだと気づいた。